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2007年12月28日

日本ライフラインの鈴木啓介社長に聞く

日本ライフライン<7575>(JQ)
代表取締役社長 鈴木 啓介氏

「病める人のために最新、最適な医療機器の
提供を通じて社会貢献する」という
創業来の経営理念を常に守り続けて成長


鈴木啓介社長 日本ライフライン<7575>(JQ)は心臓関連を中心とした医療機器輸入商社。国内の営業網が充実。今年9月にヨーロッパ最大の心臓血管医療機器メーカーのソーリン・グループと長期契約を結び日本法人も買収した。自社製造製品の強化やアジア圏への輸出も計画する。今期は売上が200億円台に回復見込みだが5年以内には300億円を目指す。08年1月から本社も移転し新たな発展を目指す同社の鈴木啓介社長に経営に対する思いなどを中心に聞いた。

「日本の津々浦々まで私たちのサービスを届けたい」の熱い思いで販売網充実

―医療関係のご経験がおありたったのでしょうか。

鈴木社長
 全くありません。学生時代は医療とは縁遠い文系でした。下宿をしていたアパートの大家さんの紹介で医療関係の商社に入り4年間勤めました。取り扱っていた商品の心臓ペースメーカーは日本でも必ず伸びると考えていましたが、会社の方針とあわない部分もあり、現会長と私と他に約20名がスピンアウトして、ペースメーカーをメインに輸入販売する会社として立ち上げました。27歳の時でした。

―どのような思いで、日本ライフラインの社名をつけられたのですか。

心臓ペースメーカー鈴木社長 会長と2人で社名を考えました。何よりもペースメーカーは人命を救うものであること、そして、私たちがこれを普及させ、患者さんにクオリティ・オブ・ライフを提供していきたいとの思いを込めてつけました。

―会社設立後、好調に業績を拡大されました。

鈴木社長
 ペースメーカーは非常に専門性が高い分野で大手が進出し難く、アメリカの大手電機メーカーも撤退したほどです。設立(1981年)から数年は、1ドルが275円くらいまであがった時期で、アメリカから商品を輸入していた当社には大変厳しい状況でしたが、1985年のプラザ合意以降、為替が円高に向かったことは収益にプラスでした。しかも、心臓病に対するペースメーカーやカテーテル治療が日本でも普及し始めた頃で、公定価格もない時代でしたから、設立からの約15年間は「円高」、「普及期」、「公定価格がない」という恵まれた環境で業績を伸ばすことができました。


2008年1月から本社を天王洲アイルへ移転

―本社を天王洲アイルに移されますが、創業の地、池袋を離れられるのは。

天王洲アイル鈴木社長 2008年1月7日から新しい本社(東京都品川区東品川2−2−20 天王洲郵船ビル25階)で業務を始めます。この池袋は創業の地という思いはありますが、オフィスが10フロアに分散していて効率が悪いためです。新しいオフィスは広いオープンスペースで効率は良くなります。

―販売網が札幌から沖縄まで非常に充実されていますね。

鈴木社長
 営業所が25、出張所が3の合計28ヵ所です。当初から、「日本の津々浦々まで私たちのサービスを届けられる環境を作りたい。環境が整えば必ず業績はついてくる」との思いで取り組んできました。

エラ・メディカル社と心臓ペースメーカー等の心臓不整脈治療製品で
日本における独占販売契約を締結し業績安定


―取引先を変更されたのはどのような理由ですか。

鈴木社長
 この先不整脈治療の分野は成長が期待できますが、競争も激しくなります。その中で私たちのような商社としては、優れた製品開発力を持つメーカーとの関係を強化していかなければなりません。そのような中、優れた技術力を持ち、日本での事業強化をはかっていたソーリン・グループと交渉がスタートしました。結果的に、グループ傘下のエラ・メディカル社と心臓ペースメーカー等の心臓不整脈治療製品に関する日本における独占販売契約を結び、今年9月から販売を開始しました。同時に日本法人のソーリン・グループ・ジャパンを吸収合併しました。これによって40数名が当社に加わったことで、営業、マーケティングスタッフの人員もいっそう充実しました。

―9月という時期については。

鈴木社長
 ソーリング・グループの植込み型除細動器(ICD)の新製品が輸入承認を受けるタイミングに合わせたためです。9月1日より世界最小クラスのICD「オベイシオ」の販売を開始し、同時に心臓ペースメーカー「シンフォニー」やホルター心電計の販売も行っています。また、2008年度には世界最小かつ長寿命の心臓ペースメーカーの新製品「リプライ」の国内導入も予定しています。

―9月以降、切り換えの状況はいかがですか。

鈴木社長
 9月は既存商品48%、エラ社商品52%、10月は既存商品40%、エラ社商品60%、11月は既存商品30%、エラ社商品70%、12月は既存商品25%、エラ社商品75%とエラ・メディカル社商品への転換が順調に進んでいます。今期(3月期)中にほぼ100%に近づけることで来期から業績へフルに寄与します。

自社製品比率アップでコスト引き下げも図る

―冒頭、円高、普及期、公定価格のお話でしたが、現在は環境が変わっているのでは。

鈴木社長
 為替については円で決済を行っています。日本での心臓病の患者さんは増えていますが、医療費抑制のため2年に一度、公定価格である保険償還価格の引き下げがあります。

―対応は。

鈴木社長
 現在、約18%の自社製造製品の比率を高めていきます。コスト引き下げの努力ができますので将来はこの比率を30%へ持っていきます。また、海外での販売展開をはかります。韓国を始めアジア圏への輸出を考えています。

―9月中間期での品目別の状況を教えてください。

鈴木社長
 9月中間期の売上高は97億2800万円で前年同期に比べ11.8%の増収です。品目構成では、「リズムデバイス」「EP/アブレーション」「外科関連」「インターべンション」からなっています。中間期では「リズムデバイス」は50億6800万円で13.3%の伸長です。心臓ペースメーカー関連で1.8%増、植込み型除細動器(ICD)関連では昨年12月に販売を始めました心不全治療用のニューデバイスCRT−D(除細動機能付き両心室ペースメーカー)が寄与しました。さきほどご紹介しましたエラ・メディカル社製の心臓ペースメーカー及びICDが9月から寄与しています。「EP/アブレーション」では、自社製造製品であるEP(電気生理用)カテーテル及びアブレーションカテーテルが医療現場に近い国産メーカーとしての強さを発揮し中間期では売上高22.1%増の15億5600万円と大きく伸びました。「外科関連」では人工血管が従来商品に加え今期から本格的な販売を始めた透析用人工血管「グラシル」の寄与もあり数量は伸びましたが、1月と4月の2回、合計で約20%の保険償還価格の引き下げが行われたため2.6%の減収となりました。このほか、人工心臓弁、人工肺を手がけています。「インターベンション」はPTCAバルーンカテーテルのほか自社製造製品であるガイドワイヤーが堅調であったことに加え、今年1月から販売を始めた血栓異物除去用カテーテル「フィルトラップ」の寄与などにより32.1%の大幅な伸びとなりました。

5年以内に売上高300億円目指す

―今3月期は増収減益の見通しですが。

鈴木社長
 売上高は13.0%増の205億100万円と2ケタ伸長で200億円台に乗せます。しかし、一部商品の保険償還価格引下げの影響と主力商品の取引先変更及び日本法人の買収などで費用が先行するため営業利益は58.1%減の2億9100万円の見通しです。配当は年25円を継続します。

―中期計画はお持ちですか。

鈴木社長
 保険償還価格の引き下げ幅が読めないという不確定な面があるため外部には具体的な数字は発表していません。また、過去2回、取引先との契約切れにより業績が下ぶれする不安定さがありましたが、今回のソーリン・グループとの長期契約、自社製造製品の強化、さらに当社のオンリーワン商品である先天性の心臓疾患に対する治療用カテーテルを強化することなどによって業績が安定します。今期売上が200億円台となりますが5年以内には300億円にはしたいと思っています。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 09:54 | 人・思い
2007年05月23日

株式会社インテリックス代表取締役社長 山本卓也氏に聞く

株式会社インテリックス (8940・JQ)
代表取締役社長 山本 卓也氏


持ち前の物理系思考を不動産に導入
マンションの再生販売で飛躍


代表取締役社長 山本卓也氏 −−早速ですが社長の少年時代を教えてください。
「そうですね、3月の早生まれだったことが意識の中に残っていますね。とくに、小学生の頃は勉強、運動などいろいろなことで、同級生に比べ、遅れていたという思いが強かったですね。成績もよくなくて、授業参観日には、親に来てもらったことがありませんでした(笑)。成績がよかった姉のほうにばかり出るので、ちょっと悔しかったです。でも、親が、『早生まれの子が平均学力に追いつくには中学2年生頃までかかる』と言ってくれたことは覚えていますし、心の支えとなりました。実際、中学2年には、成績はクラスで上位になりました。とくに、物理や化学といった科目には非常に興味があって、小学校5、6年生の頃にはアインシュタインの相対性理論や核分裂反応といった書籍を読みあさって、ある程度理解はできていました」

 −−すごいですね。お父さまの影響があったのですか。
「父の影響といえば、満鉄に勤務していた父の理論的な考え方を受け継いだのではないかと思います。すばらしい父です。物理系が好きだったのと、『手に職をつけなさい』というのが両親の言葉でしたから、自分では、工業高校へ進むのがいちばんと決めていました。しかし、親友からの、「これからの時代は大学に行かないとダメだよ」との言葉がパンチとなり、急遽、受験先を都立高校へ変更し普通科へ進みました。父も大変に喜んで、哲学書100巻をプレゼントしてくれました。相当の量でしたが読破しました。そこで出会ったのが、デカルトの演繹法です。それ以後、私の物の考え方に大きく影響を与えていると思います」

「生徒会」時代からの出会い、奥さんとの二人三脚人生

 −−そして、高校時代に、奥さまとのすばらしい出会いがあったとお聞きしていますが。
「(ちょっと、はにかまれて)入学してすぐ、クラスメイトの女子から、『生徒会の役員に立候補しないか』と誘われましてね…。学校のことが、まだ十分分からない一年生が生徒会に立候補するなんて、とんでもないと思いましたが、誰も立候補者がいないというので、それなら一年生なりに、精一杯がんばってみようと立候補しました。結果は、声をかけてくれた女子生徒が書記に、私が副会長に当選しました。しかし、会長が不在だったため、実質は会長のような役割を果たすことになりました。ところが、私は、血液型がA型のうえに、理数系という、典型的な思考先行型人間で、行動は後からというタイプなものですから、それを支えてくれたのが書記だった彼女です。のちに、私の奥さんになってくれたのですから、縁は不思議ですね(笑)」

 −−デスクの上の写真がそうでしょうか。ちょっと、拝見させてください。美しくて、素敵な奥様ですね。(横から、編集長が、社長さんが、最初の出会いから、ぞっこんだったのでしょうね)
「そう、書いておいてください(笑)」

 −−おいくつで、結婚なさったのですか。
「私が20歳のときです」

 −−物理系のお好きな社長さまが、どのように不動産のお仕事と出会われたのか、たいへん興味があります。ぜひ、そのあたりのところをお願いします。
「普通科に進学し、宇宙物理学を学びたいという気持ちが強くなり、大学は千葉大学を受けました。しかし、失敗して浪人、挫折も味わいました。すでに結婚という決意を固めていましたので、勉強はしたかったのですが、生活をしていかなくてはならないという思いで、ある不動産会社の求人広告を見つけ面接に行き、そこへ入社することに決めました」

 −−そうでしたか。たいへんではありませんでしたか。
「生活は大変でしたね。当時の私の初任給は月給3万円。一方、家賃は通勤に便利の良い場所を選んだこともあって、月2万円もしましたから、本当に厳しいスタートでした。しかし、一回限りの人生、とにかく仕事に燃えましたね。営業は出来高制だったので、大きな不動産の取引契約に成功したときには月給100万円程度のときもありました。24歳の時に日頃、苦労をかけた妻と、半月ほど休みをもらって、ヨーロッパ一周の旅行を楽しむ余裕も持てるようになり、28歳の時には年収が1000万円程度まで稼げるようになりました」

 −−当然、独立を意識されたのでしょうね。
「そうです、32歳の時に会社を設立しました。最初は仲介手数料のフィービジネス中心でしたが、まもなくバブルが始まり、銀行から資金提供を受け、マンションの分譲まで手がける規模になったのですが、バブルの崩壊です。売れるものはとにかく売りさばいて乗り切ろうとしましたが、工事が進行中であったマンションだけは仕掛かりとして残ってしまい、3億7000万円もの負債を背負うことになってしまいました。当時の規模としては、非常につらい額でした。バブル最盛期の時は、「あと5年早く生まれていればよかった」と思い、この時は「あと5年遅く生まれていれば、バブルも終わっていた頃にビジネスをはじめていただろうに」と悔やんだものですが、今では『本当にバブルを経験できて運が良かった』と思っています。命取りになるような負債を背負わず、よい経験をしました。その後現在まで一回も赤字を出すことなく堅実に経営ができているのも、この時の経験があったからだと思っています」>>インタビュー続き
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 13:04 | 人・思い
2007年01月17日

キャラクター商品の製造・卸・小売を行なう、エスケイジャパン、個人投資家向けIRセミナー開催

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 エスケイジャパン(7608)は1月16日、東京・日本橋茅場町の東京証券会館で、個人投資家向けの『IRセミナー』をひらいた。
(内容は証券日刊ブログ『証券日刊ニュース』1月17日付と、携帯電話サイト『株マニ』1月17日付に掲載。また、株式専門紙『証券日刊新聞』にも掲載予定)

 セミナーでは、エスケイジャパンの久保敏志社長が『我が社のビジネスモデルと新たな成長戦略』と題して講演を行なった。

 エスケイジャパンは、ぬいぐるみなどのキャラクター商品、携帯電話用グッズ、家庭雑貨等の、企画・製造・卸・小売事業を行なっている。
 最大の特徴は、グループでのビジネス展開によるシナジーと、キメ細かい営業体制だ。

●安定的な収益を確保できる理由とは

 グループ内で小売店『ナカヌキヤ』を展開することで、最先端の消費動向をキャッチアップできる。
 卸では、従来の玩具店にとどまらず、アミューズメント(ゲームセンター)、テーマパーク、健康ランドの売店など、多様かつ広い販路に対し、全国4拠点から、ルーティンを含めた密着営業を行なっている。

 そのため、少子高齢化のなかで、また、ヒットキャラクター商品の浮沈の激しいなかで、安定的な受注と収益を確保している。

 人材活用では、商品の企画・営業には若手・女性社員、製造工程にはシニアの熟練技術や経験を活用する体制を、すでに10年前から布いている。
 新卒新入社員は、入社前にアルバイト等の経験をするインターンシップ制度により、入社後のミスマッチがなく、即戦力化も実現している。

●「社長になろうとは、思っていなかった」

 久保社長は、長崎県の五島列島の出身だ。
 生家は牧場と農業を行なっていた。次男の久保社長は、家業を継がずに、福岡で高校を卒業して就職した。

 就職先は、サンリオ(8136)の創業メンバーが独立して立ち上げた、キャラクター商品の会社だった。
 久保社長は卸事業のサラリーマンとして勤めた。
「家族的な会社で、かわいがっていただき、仕事も任せてもらっていた。このまま、この会社に骨を埋めるかなと思っていた」
 最近よくある、IT企業の若手起業家のように、すぐに起業する、とか、社長になる、といったギラギラした考えは、当初はなかったそうだ。

 10年近く勤め、大阪拠点の責任者を務めていたころ、バブルがはじけた。
「今までと同じやり方では、売上は厳しい」
と考えた久保社長は、ゲームセンターなどのアミューズメント施設に商品を納入することを、本社に提案した。

 が、当時はゲーセンというと、イメージがあまりよくなかったため、販路とするには抵抗があったようだ。
 一方、久保社長は、百貨店やショッピングセンターなどをまわっている実感から、
「これからアミューズメント産業は伸びる」
と確信していた。

 そこで、28歳の時に、大阪で会社を立ち上げ、キャラクター商品の製造・卸事業を始めた。
 社名は社長の名前「サトシ・クボ」から「エスケイ」とした。

●「小粒だが、まじめにやっている会社」

 起業は成功だった。
 1989年の設立から2004年まで、15期連続で増収を実現。2004年に『くまのプーさん』商品の大ヒットがあったため、翌2005年に反動減となった以外は、2006年2月期実績、2007年2月期予想とも、増収増益となっている。

 また、1999年に、大証 新市場部(現ヘラクレス)に第1号上場。
 会社創立から9年9ヵ月での上場は、規制が多かった当時としては、業界最短記録となった。

 とはいえ、久保社長は、自社のことを、
「小粒だが、キチッとまじめにやっている会社」
と自評する。
「ITやバイオベンチャーのような派手さはないが、商品をつうじて、癒し、やすらぎを提供するビジネスだ。株主様に対しては、配当を重視しており、かつ、状況を見ながら株式分割も行なっている。末永く保有して、応援していただきたい」

提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 16:21 | 人・思い
2006年12月07日

「夢」を現実に。新事業展開と業容拡大を実現した、三光ソフラン

takahashi.gif三光ソフラン(1729・HC)

 三光ソフラン(1729・HC)の高橋誠一社長が好きな言葉は、「夢」だという。
「具体的な『夢』を持てば持つほど、思えば思うほど、願いは実現する。達成したら、また、次の夢ができる」

 高橋社長は1945年、埼玉県生まれ。
 東京電機大学卒業後、家業の米穀店に入社し、独自の販売手法と積極的なセールスで、それまで1店舗だった店を43店にまで拡大した。
 その後、不動産事業に参入すべく、宅建資格を取得。1974年、29歳の時に、三光不動産(現 三光ソフラン)を設立した。
 不動産仲介事業からスタートし、建売、分譲、賃貸管理、高齢者介護施設へと、事業を拡大してきた。

 そんな高橋社長だからこそ、の言葉だろう。

●得意先を1軒1軒まわって

 もちろん、ぼんやりしていて現在の業容になったわけではない。

 米穀店時代には、得意先1軒1軒をまわって、お客には美味しいお米を食べてもらい、かつ店側にとっては効率的な販売や集金ができる工夫をした。
 また、当時は店ごとにエリアが決まっていたため、新築住宅で引っ越してくるお客を中心に新規顧客開拓を行なった。
 不動産事業を始めた時は、石油ショックで逆風の時代だった。
 そのなかで、高橋社長1人で会社を始め、仲介物件を獲得するために、近隣エリアの不動産事業者500店を、1軒1軒、何度もまわった。

 こうした話は、同社が11月29日に東京・日本橋本石町の東洋経済新報社ホールでひらいた、個人投資家向けの『IRセミナー』(主催:日本インタビュ新聞社、協賛:東洋経済リサーチセンター、証券日刊新聞)で、高橋社長が『我が社のビジネスモデルと個人年金作りのコンサルティング』と題して、事業内容や業績などについて講演した際のものだ。

●「個人年金」の切り口で資産運用を提案

 現在の事業の柱は、「個人年金」という切り口による、資産の活用・運用、節税などのアドバイザー事業と、子会社のメディカル・ケア・サービス(2494・名セ)による介護施設事業だ。
 とくに前者は、高橋社長の著書『金持ち大家さんになろう!〜個人年金づくりの虎の巻』に、かなりの反響があり、事業の拡大に結実している。
 加えて、累積ビジネスとして、アパマンショップ(アパマンショップホールディングス・8889・HC)やアップルとのM&Aで、賃貸管理事業を育成している。

 今後はさらに新事業も展開し、2010年8月期にはグループ売上高500億円(2006年8月期実績171億7700万円)を目指す。
 1人で始めた不動産会社を、すでにこれだけの業容にし、黄綬褒章も受章した高橋社長だが、「まだまだこれから」と言う。これからも、新事業展開、業容拡大の「夢」を追いかけていく。

提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 11:16 | 人・思い
2006年10月04日

ウルシステムズの漆原社長に『人生と経営を聞く』

福田貴子の『人生と経営を聞く』

ウルシステムズ(3798・ジャスダック)
漆原 茂 代表取締役社長

●実直な技術者こそが、お客様のビジネスに役立つITを構築できる


uri0001.jpg 「あなたを信頼してシステムを導入したのに、ビジネスの役に立っていない」という顧客の声で起業。以来、顧客に満足してもらえるITの提供を掲げて業績を拡大。07年3月期予想では売上高19億円(第1期目の決算では1億5200万円)、経常利益2億1000万円。人生におけるITとの出会い、"戦略的IT"の展開について漆原茂社長に思いを聞いた。


――ITに対して興味を抱いたのは、いつ頃ですか。
漆原社長 中高生の頃です。当時は、パソコンが登場してまもない黎明期。スーパーコンピュータに代表されるハイテクノロジーの分野は、いわば聖域でした。本物のプロフェッショナルな人しか触ることができないコンピュータを、自分も触ってみたいと強く思ったことがきっかけです。IT技術を使えば、何かすごいことができるのではないかという期待感もありました。

――その後、東京大学工学部へ進学されましたね。
漆原社長 はい。コンピュータサイエンスを学びたくて。研究室では、速度の速いコンピュータを触らせて頂けたりと最先端の技術を学ぶことができました。

――大学卒業後は、研修室へ残らず沖電気工業への就職を選択されましたが、
どのような思いがあったのでしょうか。

漆原社長 コンピュータに関する技術そのものへも、もちろん興味はありました。しかし、それ以上に"世の中に役立つ技術"に興味がありました。研究者として生きていくよりも、社会に出て自分の構築するITが世の中にどう役立つのか、貢献できるのかを考え実践していきたかったのです。

――沖電気工業時代に印象深かったお仕事について、お聞かせ下さい。
漆原社長 新規事業や新製品の立ち上げなど、ゼロから何かを生み出していく仕事が好きでした。沖電気さんは、やりたいことがある社員にはやらせてくれる風土があり、おかげで私は様々な仕事にチャレンジさせて頂くことができました。心から感謝しています。

――2000年7月に大学卒業以来、お勤めになった沖電気工業を飛び出し、ウルシステムズを起業されましたが、契機となった出来事は?
漆原社長 90年代後半に、お客様にこう言われたのです。「あなたを信頼してシステムを導入したのに、ビジネスの役に立っていない、どうしてなのだ」と。誠心誠意尽くしたのにも関わらず、です。そこまで自分を信頼して下さっていたのだと嬉しく思う反面、お客様の期待に応えられていないということがショックでした。冷静に考えた結果、自分がやりたいのは、本当にお客様に喜んで満足して頂けるITの提供だと改めて確信したのです。その実現のために、私は起業を決意しました。


●『ビジネスに役立つIT』の提供を目指し、起業

――起業しなければ、本当に顧客に満足してもらえるサービスは提供できない、と?
漆原社長 そう思いました。大手企業の場合は特に、システム構築の際に自社製品を提案の中に盛り込まなければなりません。しかし、それは、突き詰めて考えると、お客様の課題解決に最適なサービスではない場合もあります。お客様にご満足頂けるサービスをご提供するためには、中立独立の立場にいる必要があったのです。他に私と同じ考え方で事業展開している企業が存在しませんでしたので、私は自分でやろうと決意しました。ちょうど、3人目の子供が生まれて間もない時期でした。父として"正しいと思うことを、実際にやったんだ"と胸を張って子供たちに伝えたいという想いも起業を後押ししてくれたと思います。

――ウルシステムズは、お客様のビジネスに役立つITを提供する会社として成長してこられました。主にどんな分野に注力した事業展開をされていますか。
漆原社長 企業システムの中でも、受発注システムなど企業の差別化戦略に貢献する"戦略的IT"に特化しています。業種は、製造・流通・情報サービスの領域に限定。専門的な知見やノウハウをフル活用したITコンサルティングを実施しています。おかげさまで、リピート率は9割と高くお客様にご信頼・ご評価頂いております。

――現在、ITコンサルティング事業とソフトウェア事業の二本柱。売上比率は9対1ですが、2010年の見込みを教えてください。
漆原社長 今後約5年間で、コンサルティング事業を着実に伸ばしつつソフトウェア事業の売上を拡大し売上比率を1対1にまで引き上げたいと考えています。


●素晴らしい仲間とともに、挑戦し続ける

――今後の目標をお聞かせ下さい。
漆原社長 事業の成功はもちろんですが、その大前提として、技術者がイキイキと仕事ができる環境を整えていきたいと思っています。そして、最高のお客様に対して素晴らしい仲間とともに夢や可能性を語らいながら、"ビジネスの役に立つIT"の構築に挑戦し続けていきたいです。

――締めくくりに、是非、お好きな言葉を教えてください。
漆原社長 "愚直にチャレンジ"です。ウルシステムズの挑戦は、まだまだこれからも続きます。


【社長プロフィール】
漆原 茂 代表取締役社長

 1965年(昭和40年)2月生まれ、東京都出身。87年東京大学工学部卒業、同年沖電気工業入社。在籍中に2年間、米国スタンフォード大学コンピューターシステム研究所客員研究員。帰国後、オープン系大規模基幹システムを多数手がけ、同社で製造・流通・公共・通信・金融サービスなどのシステム構築を実施、先端技術の導入を推進した。2000年7月に「ビジネスとITの融合」を目指し同社を設立、代表取締役就任。
●ウルシステム株式会社ホームページ

【インタビューア】
福田 貴子 生活経済ジャーナリスト
 ニュースキャスター、IR記者、IRセミナーの司会者として活躍。(詳細プロフィール)

提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 14:20 | 人・思い
2006年08月16日

フルキャストテクノロジー、貝塚志朗社長に聞く

フルキャストテクノロジー(2458・JQ)

貝塚志朗社長に聞く

確かな技術と国際感覚もったエンジニアの派遣で躍進

fulu.jpg 【経歴】貝塚志朗 (カイヅカ シロウ) 1961年10月生まれ、東京都出身。青山学院大学法学部卒業。医薬会社のブリストマイヤーズで5年間営業職を務め、89年に神奈川進学研究会(同社の前身)を設立、取締役に就任。2002年10月社長に就任、今日に至る。エンジニアを育成、電気、輸送機器等の製造業の設計・開発部門へ派遣する事業を展開しながら、グローバル・エンジニアも育成。売上高81億7000万円、経常利益5億5000万円(いずれも06年9月期予想)の規模。「何事も、何をするかではなく、誰とするか」が貝塚志朗社長の信条であり事業への思いである。

「何事も、何をするかではなく、誰とするか」を基本に"啓蒙経営"展開

 人は、普通、「何を」するかで悩みますが、貝塚社長は「誰と」するかを重視されているとのこと。このあたりのことをお聞きしたいと思います。多かれ少なかれ、人は誰でも小さい頃の"思い≠ェ投影されているのではないでしょうか。小さい頃は、どのような少年でしたか。「母親が病院勤務で共働きでしたから、生まれて6,7週間で託児所に預けられたそうです。生まれたときから自主独立ですよ(笑)。当然、物心ついた頃にはカギっ子でした。しかし、淋しくはなかったですね。育ったのは清瀬市(東京都)で、畑が多く自然も豊かだったので、野原を駆け回っていました」。

 運動も、お得意だったのでは。「そうですね。小学校の頃から野球が好きで中学校までは野球部でした」。思い出に残る試合はございますか。「小学校のときの大きい大会でしたが、9回裏、サヨナラ勝ちの場面で、わたしが3塁ランナーでサヨナラのホームを踏んだことです」。

 高校では。「自転車で行ける距離の地元の清瀬高校です。野球部がありませんでしたから、2年生の時に、意識して、わんぱくグループの集まったクラスに入りました」。高校で、わんぱくですか。「悪いことをするというグループではなく、"楽しい"ことをしようという仲間が集まったグループです」。なるほど、カギっ子の頃から"誰と遊ぶか"という意識が芽生え、高校生になって、"誰と楽しむか"という、"誰と"が、強く根付いたわけだ。

両親の教え"自主独立"が人生の基本

 カギっ子だと、親の言動が大きく影響するはず。両親の教えはいかがでしたか。「そうですね、父からは自分のことは自分で決めて生きなさい、母からはウソをつかず、人様に迷惑をかけない生き方をしなさいと、ことあるごとに言われました。結果、人に頼らず、自分の道は自分で拓くことが当たり前のようになっています。このことは、これまで歩んできた人生にも、今の経営スタイルにも出ていると思います。例えば、月並みなビジネスでも、互いに啓蒙しあえるメンバーとなら、すばらしいものとなるからです」。やはり、しっかりしたご両親の教えが基本となっている。

 同社の前身である神奈川進学研究会を創ったのも貝塚社長を含む3人のメンバーだった。そして、2005年10月には株式上場を果たした。今年も200名以上の新卒採用を行っている。採用面接のときなど、若い人をご覧になって、いかがですか。「よく日本の若者は、将来の展望もなく、のんびりしていて、平和ボケのように言われますが、そうでもないですよ。具体的な将来像を描くことに欠けている方もいますが、現実を打開しようという気持ちは強いと思います。ただ、当社は外国人の採用も増やしていますが、中国やベトナムなどの若者が自分の価値を高めることに貪欲なことと比べると、日本の若者には、若干それが不足しているように見受けられます」。

独自の研修システムG.E.T.プログラムで真のプロ育成

 確かな技術を持ったエンジニアの派遣を事業とする同社。全従業員1261名中、約92%にあたる1160名が技術社員(06年7月)であり、このうち外国人エンジニアもすでに50名を超えている。外国人の採用はどのようにお考えなのだろうか。「いまやビジネスは国際化の時代です。特に、技術革新は日進月歩ですから、日本だけで対応できる時代ではありません。日本で、理工系の学生が減っていることもあります。このため、外国人を含め、国際的感覚を持ったエンジニアを育成することが当社の強さと特徴であり、当社の将来を左右するものです」。

 どのように育成されるのですか。「当社独自のG.E.T.(グローバル・エンジニア・トレーニング)プログラムによる研修を行っています。グローバル・エンジニア・トレーニングの頭文字からG.E.T.プログラムと名づけ、即戦力となるための技術研修と、さらなるスキルを身に付けた設計・開発のスペシャリストを育成することが目的です。研修は主にバイリンガル(2カ国語)で行われ、とくにシステムLSIの研修は英語だけで行われます。現在ではアメリカ・シリコンバレー、ベトナム・ハノイ、オーストラリア・ブリスベン、中国・大連と上海、インドネシア・ジャカルタ、フィリピン・ビニャンなど各国にそれぞれの研修制度と施設があります。また、提携方式の研修も順調で、中国の大連理工大学では今年2月にも、第2期生の開講式を行い、新たに27名での研修がスタートしています。こういった提携は他にもオーストラリア・グリフィス大学やインドネシア・ビーナナサントラ大学でも進行中です」。

 ところで、従来の日本では、技術者は社内で育成されるのが普通だったと思いますが、技術者の派遣ニーズの増加にはどのような背景があるのでしょうか。「言うまでもありませんが、日本は資源のない国ですから、モノ造りで生きることが柱となります。最近、日本でも製造業の大切さが見直されてきていることで、エンジニアに対する要求が高まっています。日本のメーカーで育ってきた技術者が戦後の豊かな日本を作り上げてきたと思いますが、この方々が定年を迎えられたことで技術者が不足しています。しかも一方で、豊かになると消費者のニーズは多様化し、製品開発のサイクルは非常に短くなり、時間をかけて技術者を育成することが難しくなっています。特に、日本では電気、機械分野の不足が目立ちます」。

 その電気機器向けの派遣が全体の約48%、自動車などの輸送用機器関係への派遣が約13%、職種では設計・開発関係が約50%を占めている。技術者はプロ意識が強いと思います。特に、他社での仕事となると、難しい面もあるのでは。「プロという意識はその人固有のものであってはだめだと思います。技術を製品にリリースしていけるのが真のプロだと思いますから、そのためには、チームで仕事をする意識が大切です。日本にはモノをつくり出す先人のよい手本があるのですから、見習って欲しいと思います。人から尊敬されてこそ本当のプロです。当社は、このような真のプロを育てるための集団です」。ここに、社長の、"誰とやるかが大切"という小さい頃からの思いが込められている。

 健康の秘訣は何ですか。「ストレスを溜めないことです。月1回のゴルフで気分転換しています」。(スポーツをされていましたから、飛ぶんですよと社内の声)。

 今後の業績見通しはいかがですか。「08年9月期に売上高120億円(05年9月期比75%増)、経常利益率10%(05年9月実績6.26%)が目標です」。締めくくりに企業理念をお伺いします。「より多くの技術者の雇用を生み出し、高い技術力を提供することで、より豊かな社会の実現に貢献することです」。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 13:24 | 人・思い
2006年07月28日

プラマテルズ(2714・JQ)

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個人投資家向けIRセミナー開催
PER7倍台は割安 いまが買い時


 プラマテルズ(2714・JQ)は7月26日に東京・日本橋茅場町の東京証券会館で個人投資家向けのIRセミナーをひらいた。菅原正弘社長が『高機能プラスチック商材で【世界の工場 アジア】を支える』と題して講演し、会社概要や業界環境、事業動向、中期戦略などについて説明した。(セミナーの内容については、株式専門紙「証券日刊新聞」に近く掲載。)

 同社は合成樹脂(プラスティック)の原料を材料メーカーから仕入れ、自動車メーカーやデジタル家電メーカー、OA機器メーカーといった顧客企業へ販売する専門商社。商品を右から左へ動かすだけでなく、使用条件に合わせた素材について提案等を行なったり、収益性の高い樹脂分野の取扱比率が高い、高付加価値型の仕事をしている。
 同社の大株主はプラネット社で、同社は双日(2768)の100%子会社だ。

 菅原社長は1952年生まれ、東京都出身。1975年、日綿実業(現 双日)入社。1998年、ニチメン(現 双日)汎用樹脂部部長。2004年、プラマテルズ大阪支社長。2005年、社長に就任した。

 セミナーの質疑で、「趣味は登山で、登山歴40年とうかがったが、これまでで最も印象に残った山は」との質問が出た。
 菅原社長は「十数年前に登った、北アルプスの槍ヶ岳。達成感と、頂上からの眺めの素晴らしさが印象に残っている」と回答した。
 続いて、「趣味の登山を経営にどのように反映させているか」との質問に、菅原社長はこう答えた。
「登山は、身近な山でも場合によっては危険なこともあるが、逆に、どんなに困難そうな山でも、一歩一歩、間違いなく着実に行くと、ピークハント(踏破)して帰って来られる。
 経営も、奇を衒ったり、大向こうをうならせることを狙ったりせず、一歩一歩の積み重ねだと思う」

提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 13:51 | 人・思い
2006年07月06日

IMV (株) 小嶋成夫代表取締役会長兼社長

シャープ創業者・早川徳次氏の教えが貴重な財産

IMV(7760・ジャスダック)
【小嶋成夫代表取締役会長兼社長】
imv.jpg 昭和11年まれ、大阪府出身、神戸商科大学(現 兵庫県立大学)商経学部卒。公認会計士の資格を持ち、七四年に会社更生法を申請した国際機械振動研究所(旧社名)の更生管財人として再建に取り組む。85年に自力再建を果たし、経営の最高責任者として今日に至る。


 同社は振動による試験装置の世界的メーカー。年間売上57億円、経常利益7億円(ともに06年9月期予想)。

 小さい頃から、商売が身近な存在だったそうですが。「実家が、商店街で家具屋を営んでいましたので商売を見て大きくなりました。就職は、家から社屋が見えていた早川電気工業(現在のシャープ)に迷うことなく決めました」。出会いを大切にした自然流の生き方とお見受けした。

 この早川電気工業との出会いが、後(のち)の人生に大きく作用したそうですね。「最初は、営業の外回りの仕事でしたが、そのときに、仲間との付き合いを大切にしながら、就寝前に2、3時間勉強を続けて、公認会計士の資格を取得しました」。

 資格取得後は本社勤務となって、運命の出会いがあったということですが。「本社では、販売企画部の計画課長に20歳代の若さで抜擢され、同時に研修業務も兼務することになりました。研修には、技術開発では時代の最先端を行くパイオニア的な存在の早川徳次会長がお見えになり、訓示の前に、短い時間でしたが、直接、お話を聞く貴重な機会を度々得られたことが、わたしの貴重な財産となっています」。

 どのような、お話でしたか。「人に真似されるものを作りなさい、ということでした。アキレスと亀のように、ライバルに真似をされたら、さらに、それを超えるものをつくればよいと、熱っぽく説いていただいたことを強く覚えています。このほか、技術先行型の魂、優秀な人材の蓄積、資本の力、信用力の大切さなども教えていただき、こうした教えが私のDNAレベルでしみ込んでいるように思います」。

 早川会長は、技術だけでなく、商売にも鋭い見方をされていたようですね。「印象に残っていることに、大金持ちになりたいのなら、自分のイメージできない金額を考えてはダメだ。自分がイメージしている金額を、半分ずつにして考えなさいという教えがありました。大きな金額を目標数字として設定する場合、まず、その数字が身近な数字として感じることができるまで、半分ずつに落とし込んで行き、そのうえで、身近となった数字に対し5年で倍々としていって元の目標金額にするというやり方です。こうした、早川徳次会長との出会いが、わたしの幼少期からの思いであった"独立"を意識し始めるきっかけになったと思います」。

 そして、昭和44年に公認会計士事務所を起こして、念願の独立ですね。「昨日まで一課長に過ぎなかった私を、シャープの経営顧問に任命していただいた厚遇には今でもありがたいと感謝しています。独立早々、役に立ったのが、シャープで社内研修の講師をしていた経験です。経営コンサルタントとして、セミナーの講演でずいぶん役立ちました。セミナーの内容は勇気づけることを中心に、具体的な提案を心がけてきたことが評価されたと思います。そうこうしているうちに、大阪地裁から調査委員に任命されました」。

 それが、IMVの旧社名時代に会社更生法を申請した国際機械振動研究所の調査依頼だったわけですね。すごい、出会いですね。「当時、当社は石油ショックの痛手をもろに受け経営危機に見舞われていました。工場の前で、自動車産業の発展に貢献してきたこの会社を潰すことはできない、なんとか立ち直らせなくてはいけないという強い思いを持ちました。裁判所へ、やり方によってはなんとかなる、という報告書を提出し、裁判所から返ってきた内容が、"更生管財人の引き受け依頼"でした。当時、30歳代半ばでしたが、人生をかけて大役を引き受け、この会社を必ず更生させるのだ、と自分に誓いました」

 「しかし、実際は、厳しいことの連続で、融資ひとつとっても、銀行からやっとの思いで理解を得ても、次は個人保証の問題など想像していた以上でした。そんな時期に、会社とともに歩んでくれた社員の存在はかけがえのない財産でした。住宅ローンは組めない、賞与もないなかで、会社を信じ経営者を信じて、"自分の人生は会長に賭けます"といってついて来てくれた社員たちのおかげで今の会社があります。わたしの経営目標の一つは従業員をハッピーにすることです。仮に、不況となっても一律何割カットというリストラはやらないと10年以上も前から言い続けてきました。いつリストラされるか分からない気持ちで、びくびくおびえながら仕事をしなくてはいけないような環境はつくりたくなかったのです」。

出会いを大切にした、"Yes We can"経営で邁進

 念願の株式上場を05年7月に果たされましたね。次の目標はいかがですか。「もっと大きな舞台で活躍したいですね。新規事業をどんどん展開していきたいと思っています。会社発展のために、社員が全員でアイディアを出し合える活気ある空気を大事にしています。また、技術はお客様が磨いて下さいますので、クライアントからどのような厳しい注文が出されても、"Yes We Can"と言って、笑って帰って来いと社員に言っています。いろいろ新規事業のタネも育っています。これからを楽しみにして下さい。」

 日本にモノ作り回帰が鮮明となっていますので、御社の事業にはフォローの風が吹いているのではないですか。「その通りです。自動車業界ではガソリン車からハイブリット車などへ技術の転換期を迎え、振動に対する耐久性と密接に関連しています。世界の厳しい競争のなかで勝ち抜いてきた日本自動車産業とともに歩んできたわが社は、"Yes We Can"の精神でこれからも突き進んでいきます」。

 締めくくりに、お好きな言葉をぜひお願いします。「高杉晋作の、『面白き こともなき世を 面白く 棲みなすものは 心なりけり』が好きですね。とくに、やってみたいことは、社員から危ないからだめだといわれているバイクに挑戦です(笑い)」。社長室の飾り棚には所せましと並べられているカメラの数々、こちらの趣味も半端ではないようだ。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 16:28 | 人・思い
2006年02月23日

メディビック(2369・東マ)

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テーラーメイド創薬」で個人に適した薬を

 メディビック(2369・東マ)は22日、東京・日本橋茅場町の東京証券会館で、日本インタビュ新聞社主催の一般投資家向けIRセミナーを開いた。
 橋本康弘社長が「個人に適した副作用の少ない医療の実現に向けて」と題して、業界動向、同社の事業と業績などについて説明した。
 同社は「テーラーメイド創薬」事業として、遺伝子技術を活用した医薬品開発などを行なっている。現在の中心的な仕掛かり事業は、米社との共同で、すい臓がんを対象とした抗がん剤の開発である。
 橋本康弘社長は大阪大学医学部を卒業後、米ハーバード大学医学部に留学。さらに米ぺンシルバニア大学で7年間、助教授、准教授を務めた。その後、米欧各社のバイオ事業のエグゼクティブを歴任。2000年に北海道大学の客員教授に就任するとともに、メディビックを設立した。
 という、エリートな経歴の持ち主だ。
 しかし、セミナーでは、「お酒に強い人と弱い人がいるのは、遺伝子の違い」など、身近な例えから、遺伝子や医薬品開発についてわかりやすく説明。さらに、質疑応答に答えて、橋本社長自身、母親をすい臓がんで亡くしたと語った。
 遺伝子技術を活用した医薬品開発の意義について、橋本社長は次のように説明した。「薬を投与した時、その人の遺伝子タイプによって、効く人、効かない人、副作用が出る人がいます。投与前にそれがわかれば、その人に適した薬を早く処方できる。でないと、重篤な患者の場合、間に合わないのです」
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 16:16 | 人・思い
2006年01月25日

コムシード(3739・名セ)

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企業価値を上げて、株価を上げたい

 コムシード(3739・名セ)は1月25日、東京・日本橋の東洋経済新報社ホールで、日本インタビュ新聞社主催による、個人投資家向けのIRセミナーを開き、福島雄二社長が同社のビジネスモデルと事業戦略について説明した。
 同社の主事業は携帯電話のインターネットによるパチンコ、パチスロの情報配信サービス。さらにゲームや着メロ、パソコンのサイトによる情報提供、インターネットによる通販、求人情報サービスなども展開中だ。
 2006年3月期の業績予想は売上高9億5000万円、経常利益1500万円、当期利益800万円、1株あたり利益266円66銭としている。
 福島社長の言葉で印象に残ったのは、次の2つだ。
 「株価は会社が決めるのではなく、投資家が決めるものだ。昨秋から、短期間で、当社の株を含め、全体に上がってきている。キャピタルゲインを期待する思惑が動いて上がったのかなと思う。当社はまだ時価総額が小さく、少なくとも100億円を目指したい。が、それは企業価値を上げて、投資家の皆様に判断していただいてのことだ」
 「できるだけスピード感をもって事業を行なう必要はあるが、企業の成長にはある程度時間も必要だ。最近、(ライブドアなど)残念な事件が起きたが、企業も投資家も(収益を)急ぎすぎて、それが(市場などを)いびつな形にしているように見える。(事業展開も投資に対する利益も)速度を上げる必要はあるが、投資家の皆様には、できれば長く支援していただき、最終的にトクをしていただければと思う」
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 18:35 | 人・思い
2006年01月20日

サンコーテクノ(3435・JQ)

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培った信頼と、明るい展望

 サンコーテクノ(3435・JQ)は1月19日、東京・茅場町の東京証券会館ホールで、個人投資家向けのIRセミナーを開いた。約200人が来場し、洞下 実(ほらげ・みのる)社長が、経営姿勢や同社の強み、今後の展望を説明した。
 同社は金属系アンカーの国内最大手。アンカーは、コンクリートの建造物などに取り付ける金具で、木造建築でいうところのクギにあたる。
 同社の特徴は、研究開発から製造、物流、販売まで一貫体制で行なっていること。とくに研究開発事業の充実は強みだ。また、海外進出にも力を入れている。
 部材、工具のほかに、耐震補強工事などの施工事業も行なっている。とくに最近は耐震施工の需要が増えているという。この分野は大きな伸びが期待されている。
 経営姿勢の説明の中で、洞下社長は「会社は人の役に立つためにあると考えている」と語った。社員にはいつも「知恵を出し、汗を流していれば、利益はあとからついてくる。『儲ける』のではなく『儲かる』のだ」と言っているそうだ。
 経営理念のひとつ「奉仕は、真価の追求なり」、経営基本方針「人のお役に立つために創造提案型企業をめざす」は、それを体現している。
 質疑応答では、後継者についての質問も出た。洞下社長は「後継者候補は息子や社員を含めて5人いる。いま競ってもらっているところだ。誰にしようか迷うのは贅沢な悩み」と冗談まじりに答えた。
 洞下社長の地に足がついた姿勢は、マネーゲームに狂奔する経営者とは、一線を画している。
 着実なものづくりで培った信頼と、研究開発や海外展開を積極的に行なう姿勢、明るい将来展望。同社の株は、ライブドア・ショックで市場が乱高下したここ2〜3日にも、むしろ上がったくらいであった。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 12:38 | 人・思い
2004年11月29日

イオンファンタジー社長、中下善昭氏

人を大切に“ふれ合い経営”を展開
 出身は広島県呉市。中央大学経済学部卒業、55歳。「3兄弟のいちばん下で、上2人は外に出ていたし親にも苦労をかけたので卒業したら、田舎へ帰って親の傍にいようと思った。流通と証券なら地元にも店があるので入りたいと思っていたら、地元にジャスコができたので東京神田にあった事務所で入社試験を受けた」。合格はしたものの、しかし、配属されたのは地元ではなく、兵庫県川西を皮切りに新規出店ブームから三木、洲本、竜野、姫路など兵庫県を中心に新規オープンの店での勤務が多かった。よく働いたし、行く先々の店はそろって成績が上向き、仕事は楽しかったという。
 東京に転じてからは労働組合の政策部長や書記長も経験、これで、「仕事、とくに物事の手順について一気に霞がとれた思いで非常にいい経験をした。この思いから管理分野もやってみたいと希望して管理部長も経験させてもらった」。管理分野と営業分野の経験から、現場と人の大切さを実感、その後の経営に生かしている。新潟長岡店長時代は売り場を1.5倍に拡張、社員のヤル気も引き出し同じ業界のライバルと競い合って好成績を上げた。イオンシネマズの社長を2年間務め、今は、ファミリー向けの“室内ゆうえんち”を、イオン、平和堂、天満屋ストア、マーサ、東急ストア、コープ札幌など全国のショッピングセンター内でチエーン展開する当社の船長だ。もちろん、内外158社に達するイオングループの1社である。
 「旧ジャスコの中でアミューズメント事業を始めて10数年が経ったが、従来型のマニアや若者対象のゲームセンターとは異なる子供達とファミリーを対象としたショッピングセンター内の室内ゆうえんちという新しいアミューズメント施設を目指してきた。さらに、おもてなし、エンターテイメント要素を加え親子のふれあいをコンセプトとしたファミリーエンターテイメント・アミューズメントを提案していきたい。売上500億円(前期234億円)は見えてきたので、次は1000億円を狙いたい」と口を引き締める。子供さんは娘さん2人だが、「単身赴任時代は中学生だったので心配だったが、素直に育ってくれて妻に感謝している」。中学時代からテニスに打ち込み、高校の時にはインターハイにも出場した腕前。意志は強く、酒の本場の広島だけに嫌いではないが、「1週間に一度飲むていどで、晩酌は単身赴任の時に止めた」と微笑む。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 00:00 | 人・思い
2004年07月15日

マーベラスエンターテイメント社長・中山晴喜氏

「速さ」と「柔軟性」で独自展開
nakayama.jpg 父はセガの前身、セガ・エンタープライゼス社長の中山隼雄氏。どんなお父さんでしたか。「後楽園のジェットコースターと、トラ・トラ・トラという映画を観に連れて行ってくれたことくらいしか思い出にない。ただ、父の歩くことと食事の速さ、それに時間には決して遅れなかったことは子供の頃から自然に学んだ。私も食事は速いし時間厳守です」と微笑む。比較するわけではありませんが、経営者としてのお父さんは。「そうですね、決して物事を決めつけず、“こうなるかもしれない”と、常に柔らかく考えていました。このため、不測の事態が起きてもあわてず対応していた。私も、いったん決めた後、つまり、走り出してからでもいろいろな展開を考えているのはやはり父の影響でしょう」と、父の背中を見て学んだことは多い。
 7年前の97年に自らの手で当社を設立、わずか5年後にはジャスダックへ株式をスピード上場、持ち前の“速さ”が経営に発揮されている。「人、モノ、カネでは大手に勝てないが、スピード、決断力、とくにジャッジの速さが当社の武器。検討しておきますなどとは絶対に言わない」。振り返って点数をつけるとすれば。「70点ていど。マイナス30点には、社員の業務に対する気配りの欠如がある。どちらが安いか比較もしないで購入したり、あるいはミーテイング後のイスを元に直さない社員が一部いる。業界に対することもマイナスに含まれている。
 世界のアニメの60%が日本のものだが、業界は潤っていない。長くテレビ局ありきの下請けでやってきたからだ。著作権は本来、作品を作った人に帰するべきだが、実際はお金を出したところに属している。これではクリエーターにやる気がでない。独自路線を展開している当社がもっと貢献できるように頑張りたい」と意欲をみせる。「これまで、利益優先でやってきたが、前期に初めて売上が予想を下回った。これからは売上にも力を意識を入れていきたい」。趣味は多いが、なかでもギターワインが好き。プロ野球は最初に観た試合が縁でロッテファン。39歳の若手経営者だ。
提供 日本インタビュ新聞社 Media-IR at 00:00 | 人・思い